平野啓一郎のエッセー『私とは何か ― 個人から分人へ』を読んだ。
「分人」とは、「個人」の対義語のようなニュアンスを持つ、彼の造語である。
最初は面食らったものの、読み終えた今では、腑に落ちた。
私たちはよく「本当の私」は内側にあって、対外的には仮面をかぶって生きていると考えがちだ。つまり、内面にひとつだけ「本当の個人」があり、それを隠しているイメージだ。
でも、実際には「中心」と呼べるものはなくて、コミュニティや友人、家族など、それぞれの関係のなかで見せている顔の集まりこそが「私」なのだと言う。
関わる人が少なければ、ひとりの相手に対する「分人」の比重は大きくなるし、多くのつながりがあれば、それぞれの分人がひしめき合う。
たとえば、高校の友人に見せる自分と、大学の友人に見せる自分は違っていて、職場でのキャラと家庭でのキャラも違う。けれど、どれかが「本当の私」で、他は偽物、というわけではない。どれも本当の私なのだ。
仮に学校のクラスでいじめにあっていたとしても、そこで苦しい思いをしている分人がいたとして、それが「私のすべて」ではない。
他のコミュニティでは「愛されている分人」「尊敬されている分人」も存在しうる。そのすべてが集まって「私という存在」なのだ。
だから「本当の自分探し」とは、分人が心地よくいられる場所を探すことかもしれない。
私はフェイスブックやインスタグラムが苦手なのだが、この分人理論を読んで、苦手な理由に深く納得した。
知り合いたちが全部一緒くたに存在する場で、どの顔で何を語ればいいのかわからなくなってしまうからだ。なるほど、ものすごく納得。
要するに私は顔バレしている人に日記を読まれるのがとても恥ずかしい自意識過剰中年なのである。
その点、このブログは私のことを知らない読者がほとんどなので、私は「ブログを書く私」という仮面をつけていればいい。ラクだ!
いや、もちろんそこまで劇的にキャラが違うわけではない。でも、会社では日がな一日読んだ本のこと、しかも殺人事件やホラーばかり語っているわけにはいかぬし。
この「分人」という考え方、私はすごく納得したのだけど、この説明でちゃんと伝わるだろうか。
「自分などない」と言い切るのとは少し違うけれど、「本当の自分は存在しない」という点では東洋哲学にも通じる気がする。
ちなみに、平野啓一郎の小説にはこの分人の考え方が反映されていて、それらは「分人シリーズ」として知られているらしい。
突然ですが、分人のイメージ↓ 中心に何かがあるわけではなく、世間に向ける顔の数だけ分人がいる。それぞれの大きさの違いは、その人に対する重みの違い。
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分人がはじめて概念化された近未来SFだそう。
なんじゃそりゃー!と昨日までの私だったら言っていただろう。