若竹千佐子の芥川賞受賞作「おらおらでひとりいぐも」を読んだ。
75歳の老女桃子は、夫に先立たれ、娘とも疎遠の生活を送っている。その生活の中で、脳内で他者と会話をするようになる。桃子さんの心の声=寂しさたちと一緒に、郷里との別離、夫周造との出会い、必死だけど笑いの絶えない子育ての日々と、そしてひとりきりになった今を、行き来していく。孤独な桃子さんは、寂しさたちといつの間にかにぎやかな毎日に。そんな桃子さんの求めていたものは何か
この本、もう少しコミカルな内容と思っていたが想像とちょっと違って深かった~
主人公桃子さん75歳の内面から勝手に湧きあがってくる東北弁の声。
旦那さんの周造をなくし、育てた2人の子どもとも疎遠となり一人お茶を飲む桃子さんの頭の中はたくさんの心の声で溢れかえっている。
〈あいやぁ、おらの頭このごろ、なんぼがおがしくなってきたんでねべが〉
おかしくなったとて、と時間ならたっぷりある桃子さんは納得行くまで自分の言葉でかんがえる。これまでの越し方、そしてこれからの生きる意味。
やわからでどこかコミカルな東北弁で語られる言葉は、表面上の優しさとは裏腹に厳しく深い。
愛する夫を失ったときの狂おしいまでの痛み。桃子さんの圧倒的な絶望が念仏のように繰り返させる・・・かえせもどせかえせもどせ・・・・に込められている。
こんなに愛していた夫をなくしたときのことを、振り返り今の桃子さんは思う。
彼は私を一人にするために旅立った。
桃子さんは、きっと泣いて泣いて、何度も思い返すことでようやく自分でも認める事ができたんじゃないか。
愛している人に寄りかかって生きていたことを。それをあえてやることで、弱い女を守る強い男、という構図を作ってあげたていた事を。でもそれはお互い少し息苦しかったね、と。
まるで哲学者のようだと思った。
こんなにも思考を続けることができるなんて。
それともわたしたちも年齢を重ねれば、ここまで思考を堀りさげることができるようになるのだろうか。
読み応えのある作品だった。中でも刺さったのは桃子さんが心のなかで自分を叱責する言葉。(多分こんな感じ。もっといい感じで言ってた)
自分のために「手垢にまみれた」言葉を使うなもっと、考えろ!
刺さるわ~
ついついどこかで読んだような耳障りの良い言葉を書き連ねて上手い風に終わらせてしまいがちだが、なんか上滑りしてい気がするもん。
ちょっとスーパーに行く感じのブログを書き散らしている。(所詮デパートには入れないが部屋着ではない)
年を取ることって賢くなることなのかもしれない。
三人称と一人称が渾然一体となっていて、レビューには「ちょっと難しかった」、「読むのが大変だった」という声も見られたが、確かに字面で見たら東北弁はひらがなが多くてスラスラは読めないだろう。
この本こそAudible向きだと思った。東北弁がちゃんと音になることが意味があるのだ。ぜひ聞いてほしい~
映画化もされている。この淡々とした内省を映像でどうやって表現しているのか謎。
次に読みたい本
タイトル「おらおらでひとりでくも」は宮沢賢治の詩「永訣の朝」の一節。
「私は私で一人でいきます」という意味らしいが、この場合の行きますは「逝きます」か「生きますか」・・・