佐藤正午の「熟柿」を読んだ。
読み応えがあった。さすが本屋大賞ノミネート作品である。ずっしり重いのに、最後まで読ませる力がすごい。
一度越えてしまった線は、たとえ本人が「ほんの一瞬の判断ミスだった」と思っていても、もう簡単にはこちら側へ戻してくれない。
主人公のかおりは、妊娠中にひき逃げ事故を起こしてしまう。夜遅く、大雨のなか、乗り慣れない道を家へ向かっていた時のことだ。何かを轢いたような気もする。けれど、それが先ほど葬儀が行われた大叔母の姿のようにも思えて、まるでお化けに遭遇したような、現実感のない恐ろしさに飲み込まれてしまう。
本来なら、車を停めてドアを開けて確認しなければならない。そんなことは分かっている。分かっているのに、かおりはアクセルをふんで立ち去ってしまう。
もちろん、ひき逃げは許されない。やってはならないことだ。ただ、その瞬間にとっさに逃げたくなる気持ちだけは、誰の中にもあるのではないか。
だからこそ怖い。あり得たかも知れないことだから。
その事故によって、かおりは罪に問われ、前科がつく。出所後、彼女を待っていたのは離婚届を持った夫だった。
「母親に死なれた息子と、母親が犯罪者の息子、どちらが幸せか考えてくれ」
そう迫られて、かおりは離婚に応じる。けれど、それでも息子への思いは消えない。会いたい。その気持ちを抑えきれず、許可なく息子に近づいて警察沙汰を起こしてしまう。
かおりは、決して刃物を持って誰かを殺そうとしたわけではない。けれど、取り返しのつかない判断ミスをした。たった一度の過ちで、彼女の人生にはくっきりと線が引かれてしまう。
今までと何も変わっていないつもりでも、社会はもう同じ場所には立たせてくれない。一度、塀の中に入った人間として見られる。
出所後のかおりは、刑務所の中で罪を償ったあとも、ずっと自分を罰し続けているように見える。幸せになってはいけない。母親として名乗ってはいけない。誰かに愛されてもいけない。そんなふうに、自分の人生に自分で重しを乗せている。
息子への思いを断ち切るために、かおりは仕事を求めて西へ西へと流されていく。そして流れ着いた博多の地で、ようやく少しずつ自分の将来を考えられるようになる。
罪を犯してから17年。
ひき逃げは決して軽い罪ではない。けれど、罪を犯した人間は、その後の人生で一切幸せになってはいけないのか。償いとは、どこまで続くものなのか。「熟柿」は、その答えを簡単には出さない。だからこそ、読み終わったあともずっと考えてしまう。
最後の最後に、タイトルの本当の意味が明かされる。
「熟柿が落ちるのを待つ」のように、焦らず自然の成り行きに任せて好機を待つこと(熟柿主義)
かおりの人生もまた、無理に取り戻すのではなく、落ちるべき時を待つしかなかったのかもしれない。焦っても、泣いても、過去は消えない。それでも、生きている限り、少しずつ熟していくものはある。
かおりには、幸せになることを恐れずに、ゆっくり生きていってほしいと思った。
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取り返しのつかないあの夜の過ちが、あったはずの平凡な人生を奪い去った。
2026年本屋大賞2位!
第20回中央公論文芸賞 受賞
本の雑誌が選ぶ2025年度上半期 ベスト10 1位
激しい雨の降る夜、眠る夫を乗せた車で老婆を撥ねたかおりは轢き逃げの罪に問われ、服役中に息子・拓を出産する。出所後息子に会いたいがあまり園児連れ去り事件を起こした彼女は、息子との接見を禁じられ、追われるように西へ西へと各地を流れてゆく。自らの罪を隠して生きる彼女にやがて、過去にまつわるある秘密が明かされる。『鳩の撃退法』(山田風太郎賞受賞)『月の満ち欠け』(直木賞受賞)著者による最新長編小説。
次に読みたい本
誘拐という明確な犯罪がありながら、読んでいるうちに「この人を完全に悪人と言い切れるのか?」という気持ちにさせられるタイプの作品。母性、逃亡、取り返しのつかない過去、子どもへの執着という点で熟柿にかなり近いのでは。

