野崎まど の「小説」を読んだ。
小説を読むとは一体何なのか。純粋に文学を愛している人ほど刺さる物語じゃないだろうか。
主人公の内海は、5歳のときに父親に褒められたくて「走れメロス」を読んだことをきっかけに、本の世界へ沈み込んでいく。
読む、読む、とにかく読む。勉強もそこそこに三流大学へ進み、読書時間を確保できないという理由で正社員にもならない。世間的に見れば「こじらせ青年」である。だが彼にとっては、現実よりも内なる物語のほうが圧倒的に豊かで切実なのだ。
この物語は「創作」とはというテーマだが、小説家になりたくてなりたいもの苦しみではない。「何かを生み出したりしたくない」青年のジレンマだ。
---読んで、それだけじゃダメなの?
確かに、それだけでもいい。
むしろ楽しみとしての読書ってそういうもんじゃない?
浴びるように物語を摂取し、自分の内側に蓄積していくだけで満ち足りている。
そんな内海がこんなにも苦しいのは実は取り込んだ小説が、血肉となり、変性しこの世に再生成されようとしていることへの恐れじゃないかと思う。
真の才能を目の当たりにしたからこその、創作への畏怖。
しまい込むだけしまい込んだ大量の創作物は彼の脳内独り言だけでは収まらなくなってきているのかもしれない。
後半、まさかのSF的展開に驚いたけど何十年もかけて友人の問に答えをだそうとする姿は胸が熱くなる。
表紙絵のイメージとあまりに違いちょっとびっくりしたけど、人は何のために本を読むのか、本を読むってどういうことなんだろう。ひいては、心ってなんだろう。意味ってなんだろう。創作ってなんだろう…といろいろ立ち返る事が多い読書になった。
さすが本屋大賞ノミネートやな(ホント、本屋大賞はハズレが少ないと思う!)
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我々は、なぜ小説を読むのか。
五歳で読んだ『走れメロス』をきっかけに、内海集司の人生は小説にささげられることになった。
複雑な人間の昇華体であり、人の心を掴んで離さない、人の心が作り出した物語の結晶。
そこには望むもののすべてがあった。
十二歳になると、内海集司は小説の魅力を共有できる生涯の友・外崎真と出会う。二人は小説家が住んでいるというモジャ屋敷に潜り込む。
そこでは好きなだけ本を読んでいても怒られることはなく、小説家・髭先生は二人の小説世界をさらに豊かにしていく。
しかし、その屋敷にはある秘密があった。
小説を書くことで失われる世界の均衡、読むことで広がる無限の心。
宇宙最高の愉悦のすべてが、今明らかになる。
次に読みたい本
作中何度か紹介される、小泉八雲とその妻セツのエピソード
日本語が得意でない八雲とセツは独自の文字を使って手紙のやりとりをしていたというエピソードが面白い。
