iCHi's diary~本は読みたし、はかどらず~

主に読書録。読み終えた本がこのまま砂のように忘却の彼方に忘れ去られるのが申し訳ないので、書き留める。要は忘れっぽい読者の読書日記。

「正義の行方」は藪の中

木寺一孝の「正義の行方」を読んだ。

 

30年前に起こった「飯塚事件」の真相に迫るノンフィクションだ。読んでいて衝撃で何度か声が出てしまった。

 

限りなく冤罪と思われる久間さんが、すでに死刑執行されている後味の悪い事件だ。

 

小学生一年生の女の子2人が暴行の上殺され、山中に遺棄された。

こんな酷いことが許されて良いはずがない。

 

その怒りゆえに、絶対にこいつが犯人と思ってしまったのかもしれない。

 

警察が悪いとは思いたくはない、一人一人の警官はおそらく真摯に犯人を見つけることを望んだのであろうともう。

 

それゆえに、多少強引でも正義のために行動したのだろう。

 

採用されたばかりで、証拠能力が乏しい手法を使ったDNA鑑定の結果から割り出された久間さんを犯人ありきで証拠や証言を集めていく。

 

全ては殺された女の子の無念を晴らす為だ。

 

だか、かなり強引に解決をしたことで、多くの人の心の中に、真犯人が別にいるのではと言う思いを残したのである、

 

久間さん、彼のご家族ももちろん無念だろうが、2人の小学生被害者遺族もやりきれない思いがあると思う。

 

犯人を憎む、怒りをぶつけたいのにそこに冤罪の疑惑があれば怒りのぶつけどころがないではないか。

 

早すぎる刑の執行についても、ぞっとした。

冤罪の可能性があるのにも関わらず.本人も一貫して否認しているのにもかかわらず、死刑になってしまっているのだ。

少なくとも、これだけ疑わしいのに、なぜ?

口封じではないのか?

司法が信頼できないことほど恐ろしいことはない。

 

 

久間さんの奥さんが、でもまだ警察の中にまだ正義があると信じている。と言っているのが胸に響く。

 

捕まえた捜査員は、引退後も犯人を追いかける夢を見ている。捕まえきれずに飛び起きる夢だ。

 

誰もが自分の信じる正義を全うしたのに、こんな結果になるなんて。

 

真実はわからないのか?わからないままこの事件は終わるのか。胸が痛む。

何よりも恐ろしいのは真犯人がまだいるかもしれないと言うことだ。

 

できれば被害者遺族の取材もしてほしかった。

 

文化庁芸術祭賞大賞、ギャラクシー賞選奨を受賞、映画化も決定した映像ドキュメンタリーの名作を書籍化。芥川の名作『藪の中』のような、圧倒的な読書体験。
1992年2月21日、小雪の舞う福岡県甘木市の山中で、二人の女児の遺体が発見された。
現場に駆け付けた警察官が確認したところ、遺体の服は乱れ、頭部には強い力で殴打されたことを示す傷が残っていた。
二人は、約18キロ離れた飯塚市内の小学校に通う一年生で、前日朝、連れ立って登校している最中、何者かが二人を誘拐し、その日のうちに殺害、遺棄したものと見られた。
同じ小学校では、この3年3ヵ月前にも同じ1年生の女児が失踪しており、未解決のまま時が流れていた。
福岡県警は威信を懸けてこの「飯塚事件」の捜査にあたることになる。わずかな目撃証言や遺留物などをたどったが、決定的な手がかりはなく、捜査は難航する。そこで警察が頼ったのが、DNA型鑑定だった。遺体から採取した血液などをもとに、犯人のDNA型を鑑定。さらに、遺体に付着していた微細な繊維片を鑑定することによって、発生から2年7ヵ月後、失踪現場近くに住む久間三千年が逮捕された。
「東の足利、西の飯塚」という言葉がある。栃木県足利市で4歳の女児が誘拐され、殺害された足利事件は、DNA型鑑定の結果、幼稚園バスの運転手だった菅家利和さんが逮捕・起訴され、無期懲役判決が確定したが、発生から18年後にDNA型の再鑑定が決まり、再審・無罪への道を開いた。
その2年後に起きた飯塚事件でも、DNA型鑑定の信頼性が、問題となった。
DNA型、繊維片に加え、目撃証言、久間の車に残された血痕など、警察幹部が「弱い証拠」と言う証拠の積み重ねによって久間は起訴され、本人否認のまま地裁、高裁で死刑判決がくだり、最高裁で確定した。
しかも、久間は死刑判決確定からわずか2年後、再審請求の準備中に死刑執行されてしまう。
本人は最後の最後まで否認したままだった。
久間は、本当に犯人だったのか。
DNA型鑑定は信用できるのか。
なぜこれほどの短期間で、死刑が執行されたのか。
事件捜査にあたった福岡県警の捜査一課長をはじめ、刑事、久間の未亡人、弁護士、さらにこの事件を取材した西日本新聞幹部に分厚い取材を行い、それぞれの「正義」に迫る。
「ジャーナリストとして学んだことがあるとすれば、どこかひとつの正義に寄りかかるんじゃなくて、常に色んな人の正義を相対化して、という視点で記事を書くという考えに至ったんです」(西日本新聞・宮崎昌治氏)
いったい何が真実なのか。
誰の「正義」を信じればいいのか――。