三宅香帆の「好きを言語化する技術」を読んだ。サブタイトルは「推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない 」だ。
わかっかる~。
私のブログも自分の読んだ本を、つらつらとおすすめする文章だけど、書けば書くほど「よかった」とか「すごく良かった」とか「すっごくよかった」の三段階で、我ながら頭が悪そうと言うか、わざわざインターネッツで全世界に発信する意味あるのか謎だな、なんて思ってしまう。
この本は、そんな誰かに何かを良かったよ、と推すときにどう表現するとお互いハッピーなのかを丁寧に教えてくれる。
そう、推しを語る時、相手に届いていようがいまいがお構いなしの人が多すぎる気がする。(主に我が家の娘だ。サンプル数2だが言い切ってみました)
お母さんそれ知らんのよ。
聞かされる方はポカン?だし、ポカン通り越して苦痛だし、推す方も布教がすすまず、お互いに時間が無駄なのだ。
そもそも、推しを推すとはとう言うことか?そこからが解らないのだよ。
今までなかった言葉だけど「ファン」とか「贔屓」という言葉では足りないんでしょ?
熱狂的なファン?なのかな。
母の叔母に郷ひろみの熱狂的なファンで大分から東京に出ていってひろみファン同士で結婚してしまった人がいるのだが、40年以上前であれば親族間の語り草となるほどのエネルギーというか、衝動のようなものがいわゆる推し活というものなのかしらん?
だとしたら、どんだけの埋蔵されたエネルギーなんだだろうか。そら恐ろしい。
それに、どんなに愛が深くてもいつかは推しを推せなくなるときが来るかもしれない。
自分が成長してピンと来なくなることもあるだろうし、推しが急に不祥事を起こして消えてしまうせいかもしれない(推しも人の子ですからなぁ。略して推しの子)
そんなときに過去の自分の中の「好き」を形に残しておくことは大事なことだ。
自分は推しのどういうところが好きなのか、私だけの好きの詳細を語れるようになること、そうすれば誰かにこの気持ちを伝えたい時や、未来の、もう推しのことをそんなに好きじゃなくなった自分が読んだ時に役に立つ。
作者は、この「自分の言葉で推しを語る」ことは「語彙力」や「文才」ではなく「テクニック」と「真似」でできるようになる、と言っている。
例えば「クリシュ」を排除する。
クリシュとはフランス語で日本語でいうと、ありきたりな言葉。
「考えさせられた。」とか、わかったつもりのいい感じの言葉でまとめるな、ということ。テクニック、と謳いつつも気構えの問題のような気もする。
良い文章、というより発信する意義のある文章を書くには「自分で考える」時間が必要なのだ。
なんとなく上滑りに誰かと同じような感想をつぶやくのであれば、それは私やあなたが書く必要もないし、誰かが時間を使って読む必要もない。
・・・自分で書いといてなんだが考えてかいたか?私。ここまで読んでる方に申し訳なくなってきたかも。
足をどこにも向けられないので今日から足を上げて寝ます。
あ、でもよく考えたらこのブログの第一の読者は私なんで、私が書きたいから書く!謎にポジティブな強い気持ちを取り戻した。足も降ろす!
ただ、改めてブログをもっと面白く書けたらいいな、とは思った。
そのヒントとしては、こういう文章が書きたいと思う人の真似を徹底的にすると良いらしい。
ほーん・・・
ちなみに私は、岸本佐知子や三浦しをんのような抑えめで格調高い文章に隠された突拍子もなさが光るエッセイが大好きだ。淡々とクレイジーみたいな?
まあ、そう簡単に真似はできないと思うけど、書きたい文章に常に触れると良いらしい。
なるほどなるほど。とりあえず、枕の下に敷いて寝るか。
何かを褒めるときに「ヤバい」しかでてこない人にオススメの本である。
好きな本・映画・舞台・ドラマ・アイドルを語りたい人の必読書
16万部突破『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』でバズり中の著者が教える文章術!
次に読みたい本
ちなみに、あはれ、は感情が突き動かされた!という意味で今で言う「ヤバい!」と同じ意味らしい。
オールマイティな言葉として、私達も利用していきたいものだ。(ヤバい!嘘やん!)