稲垣えみ子の「老後とピアノ」を読んだ。
朝日新聞を退職し、50歳を過ぎて始めたのは、ピアノ。人生後半戦、ずっとやりたくても、できなかったことをやってみる。他人の評価はどうでもいい。エゴを捨て、自分を信じ、「いま」を楽しむことの幸せを、ピアノは教えてくれた。老後を朗らかに生きていくエッセイ集。
気になっていたこの作者、なんとなーく「アフロ」で「元新聞記者」ということだけは知っていた。(ピアノ弾いているイラストの頭も丸い)
というか、アフロだけで「元新聞記者」とか「早期退職」とか他のキーワードはどうでも良くなるインパクトがある。
そして、元朝日新聞社の記者は今は何?ということも今回のエッセイで初めて知った。
コラムニスト?エッセイスト?ライター?小説家ではなさそう。
ここらへんって、わかりにくい。
と読み始めたら、ちょっとびっくりするくらいくだけた文章だった。
新聞記事とまでは行かないまでも、なんとなく想定してた範囲から大きくハズレたちょっと「はすっぱ」と言ってもよい程の自由さ。
「んなこた、わかとっるっつーの!」みたいな感じである。
・・・好きかも。
この魂のこもった叫びをはなつ同年輩の女性は少女期に、中流階級の証である「娘のピアノレッスン」を受けていた。
私も私も~
私は小学生の頃から「ピアノ、いらない」と訴え続けていたのだ。
あの頃は語彙が足らず、親たちの「娘にピアノを習わせる幸せな家庭」演出のためにこの金額は絶対無駄!なぜなら、才能云々の前に、全くやる気がないから!同じお金使うなら、家族で旅行行ったほうが絶対いい!と説得できなかった。
すまん、ながい。
とにかく、習いたくないと公言した習い事を6年間続けさせられ、毎日のように練習を迫られ「六年習って何も弾けないなんて」と言われた恨みは忘れられん。
こうして、一生ピアノなんか見るのもいや私が出来上がったのだが、この本を読んで少しだけ心が動いた。ピアノ、たのしそうじゃん。
アフロさんも、全く同じような少女時代を過ごしたらしい。
(すくなくとも私よりはピアノに好意的みたいだが)
レッスンが嫌で嫌でしょうがない少女期。
しかし、50を迎えてもう一度ピアノに挑戦し始めたのだ。
なぜ、ピアノなのか?それは、本書を読んでほしい。
たぶん、彼女にとってはピアノがあの頃やり残した宿題だったからで、別にピアノでなくったっていいのである。
要は、いわゆるこの歳になって新たにはじめることが大事。
老化が進歩を追い抜きそうになる時、バタバタと、歯を食いしばって立ち向かう姿が潔い。
そう、これはピアノレッスン体験記、などというぬるいものではない。
これから「シルバー」と呼ばれてしまう私達が、いかにして「それでも希望を持って生きていくか?」を考えた本なのだ。
若いものは遠くを目指している。でも私達にもう遠くは存在しない。
だから、遠くではなく今ここを完璧にしたい。
こ、これはマインドフルネスではないか。
検索してみたら気になる本が沢山あった。
帯の、池上彰のコメント「とても朝日の記者だったとは思えません」がおもしろい。
色々書いたけど、アフロ最強。いつからでも新しいことを始めたくなる本。
さて、私は何をはじめようかな~